2013年06月30日

ぴしゃっつ!とした物言いの裏側には。。

だいぶ以前から「どうも私は相手に対して言葉が足りないな。」と感じることが多くあり、相手が一言で片づけられたと感じるらしく「拒否」と取られてしまうことがありました。

どうやらここにも「勇気をくじかれた私」がいたようです。
自分が努力を放棄するという状態であったことについては、「引き算の目線か?足し算の目線か?」で書いています。

ご自分の周りにもおられると思います。
二の句が継げない、目の前でピシャっと「評定」を下されて話し合いをきっぱり断たれたと感じるような話の仕方をなさる方のことです。

小学校5年生の時ですが、私のクラスでは「いじめ」の嵐が吹き荒れました。
クラス担任の先生が、病気休暇を取ることになり、年配のどちらかというと大人しい女性の先生が臨時の担任を受け持つことになりました。

その前から、なんとなく一部の暴力的な言動のある男子生徒たちが男女の何名かを標的にからかったり、暴言を吐いたり,脅したりということをしており、その標的の一人だった私は先生がいなくなることにとても恐怖を感じていました。

そういう子たちは、先生に取り入るのがとても上手です。
クラスの話し合いで、自発的に係りを自分の手中におさめていきます。
そして自分は「クラスの係」を御旗に掲げて「悪いところさがし」をしては、グラフにつけ、相手が「いい人」「悪い人」に分類を始めたのでした。

もちろん自分が好きな生徒、自分に従う生徒、は「いい人」であり、自分が嫌いな生徒、なんとなく気に入らないは「悪い人」なわけですから、私を含めて何人かは、どんどんグラフが上がっていきます。

一定の線に達したところで「お仕置き」と称して廊下に立たせるという罰が待っていました。

「自分に思い当たる節がないのに」です。

自分は何もした覚えがないのに、どうして私は廊下に立たなければならないのだろう?どうして先生は黙ってみているのだろう?なぜ助けてくれないのだろう?

クラス担任がもどってくるまでの一年間そんな状態が続きました。

もちろん成績はがた落ちです。勉強どころではありません。その日どうやって学校で無事に過ごそうかとしか考えていませんでした。

ところが家では成績のがたっと落ちた私に両親が激怒しました。
有無を言わせずという表現がぴったりの毎日毎晩の勉強の特訓です。
わからないと言えば頭をたたかれ罵声が飛びます。

お分かりでしょうか?

私は「自分の気持ちをきちんと話す」という勇気をくじかれてしまっていたのです。あきらめてしまったのです。

あなたの周りの「ぴしゃっとした物言い」、話し合いをしようとせずに自分の意見だけを言って後は言葉をはさませず殻に閉じこもる人。。

「話したいけれど聞いてもらえなかった。」「受け入れてもらえずあきらめてしまった」

そんな悲しい経験を持った人なのかもしれないのです。

幸いなことに私はアドラー心理学に出会い、多くの仲間に勇気づけられて、ようやくこうやって自分のことも書けるようになりました。

「勇気づけ」を広めたいと願う私には
「あの頃の自分」を「勇気づけて受け入れてくれる人が一人でもいれば。。」という気持ちがこもっています。
posted by 高橋直子 at 06:05| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月28日

アドラーケーススタディ・課題の分離ー悪いのは私?


いろいろなお話をクライアントさんからうかがうときに「それは誰の問題なのか?」がよく理解できていないと思われるケースに出会うことがあります。

「自分の問題」であることに気が付かないので、他の要因や他者に理由を求めたり、原因を探したりするので、なかなか解決の方向へいかないケースもあります。

以前から「本人が自分の問題であることに気が付かないのは、どういう背景がそこにあるのか?」と不思議に思っていたのですが、よくあるケースで説明が付きそうですので書いてみることにします。

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M君は朝起きるのが苦手です。
毎朝何度もお母さんが起こしてようやくぎりぎりになって起きて学校へ行きます。

ところが、ある朝お母さんが用事でM君を起こすことができませんでした。
M君は学校へ遅刻してしまい、先生に厳しく叱られてしまいました。

帰ってきたM君はお母さんにこう言いました。
「おかあさんのせいで僕が先生に叱られたじゃないか。ちゃんと起こしてくれなかったお母さんが悪いんだ。どうしてくれる?!」

「え?私が悪いの?」とお母さんは考え込んでしまいました。

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よくある日常の風景だと思った方もおられるでしょう。

でも変ですよね。不思議です。
子供のためよかれと思って起こしていたお母さんが悪者になっています。

これはいったいどうしてこうなってしまったのでしょう。

整理して見ます。

まず「起きられない」こと「遅刻した」「叱られた」のは、誰なんでしょうか?

そうです、M君です。
本来はM君の問題であり、もし何かあった場合にはM君が自分で解決する、または責任を取る問題なのです。

ところが起きられないM君を心配したお母さんは、M君の問題を自分の問題として「解決する」ことをしてきました。

結果として「朝起きる」は、「お母さんの問題」にいつの間にかすり替わってしまい、M君は、朝起きることが自分の問題であるとは思わなくなっていたのでしょう。

どうやら自分に起こった出来事を自分の問題と自覚できないケースには、ほかの人がその人の課題をいつの間にかやってくれていたという背景がありそうです。

では、もしも誰の問題なのか?が、はっきりわかってできていたらどうなるのでしょうか?

まずM君に頼まれない限り、お母さんがM君を起こすということはありません。お母さんは、それはM君が自分で解決することだとわかっているからです。

起きられないM君はお母さんに相談&依頼するかもしれません。

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「自分で起きられないので起こしてくれないかな?」

「いいわよ。でも一回でいいかな?それだったらしてもいいよ。」

「ありがとう。ママ大好き!!」

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こんなニュアンスの会話になるに違いありません。

間違ってもお母さんが悪者になることはありませんし、子供に「好き!」とさえ言ってもらえるかもしれません。

「誰の問題なのか・課題の分離」は「愛と勇気づけの親子関係セミナーSMILE・第四章」で取り上げて学習します。

次回のSMILE開催予定は下記の通りです。

<夏の仙台SMILE日曜集中二日間コース>

7月21日、8月18日 いずれも仙台で
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posted by 高橋直子 at 10:11| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月27日

引き算の目線か?足し算の目線か?

私が子供のころを振り返って今だからわかることをこれから時々書いてみたいと思っています。よかったらお付き合いください。

私が小学校のころは、祖父(母の実父)と両親、そして兄弟三人の6人家族でした。(私は三人兄弟の一番上です。)

祖父と父は価値観が全く違うこともあり、様々な場面で衝突を繰り返し、男が二人家の中でぶつかるわけですから、家の中は常にピリピリとしており、私はそのとばっちりを受けないように、大人しく目立たないように暮らしておりました。

「学ぶ」ことにかけても私をめぐって祖父と父は主導権を取ろうとしていたのでしょう。クリスマスや誕生日など、両方から様々な「プレゼント」と称した学習の材料・本であったり教材であったりをもらったものです。

祖父にとっては最初の孫であり、父にとっては最初の子供でしたから、二人の期待が大きかったことも今はわかります。

今思うと、
実際に私がどうであるかということよりも、「〜年生なんだからこれぐらいできて欲しい」「できて当たり前だ」という視点・評価で私を見ていたように思います。

父は子供に関していえば自分が親だからということで祖父の手前もあり「失敗してはならない。」という気持ちも強かったのでしょう。

父にとって、自分の管轄外に私が出ることは、大問題であり、帰りが遅くなったり、父の気に入らない子と遊んだりすると露骨に不機嫌になり、口をきいてくれなくなり、家の中で居場所がなくなるのです。

母は祖父(自分の実父)と父の間で、両方に気を使っており、私の味方にはなってくれませんでした。

そのうち友達と遊ぶよりも習い事の時間が多くなったこともあって、おけいこに出かけたり本を読んでいるほうが家族と顔を突き合わせる必要がないので、少なくとも叱られない環境にいられることに私は気が付きました。

ところが「どうやら本が好きらしい」と思い込んだ祖父と父は、今度は自分が読むことを期待する本を与えることで私への介入を始めました。

もちろん私が本を読むようになったのは、決して「好きだから」という理由ではありません。
静かに本を読んでいれば大人の闘争に巻き込まれなくてすむ、父も祖父も機嫌がいいから、だったんですね。

ところが小学校の3年のときに
祖父は「シャーロックホームズ」や「星の王子様」「アルセーヌルパン」など。
父は「椋鳩十の動物もの」「シートン動物記」

私にはかなりレベルが高く感じられまして、私の本の趣味と違うこともあり、読んでもさっぱり面白くない。

それなのに「読んだのか?」と何度も聞かれるし、ほかの本を読んでいると「読まないのか?」と言われ、「せっかく買ったのに。これぐらいのものが読めないようではしょうがないやつだ。」と言われて本当に途方に暮れてしまったものでした。

結局のところ生活のあらゆる場面が「親の希望」と「それに応えようと頑張る自分」。

でもいつになっても期待は終わることがありませんでした。
そんなことの繰り返しで、高校の時には
「もう親の期待に応えても仕方がない、私には能力がない。いつまでたっても認めてもらえない。期待されるのはもうたくさんだ。」とすっかりやる気をなくしてしまい、どうせなら期待されない自分になったほうが楽だとすっかり努力を放棄するようになっていったのです。(まさに勇気をくじかれた状態になっていたのですね。)

「ありのままの自分を見て欲しい」
「ありのままの自分でいいんだよ、と認めてもらいたい。」
きっとお子さんはそう思っているはずです。

自分が子供にこうあって欲しいという理想や目標を持っていることは、大事なことです。

でもそれは親の希望であり、必ずしも子供の希望であることとイコールにならなくていいのでは?と思います。

くれぐれもその定規でもって「あそこが足りない、ここが足りない」と、お子さんを測らないでいただきたいのです。

「理想の子」から「現実の子」を引き算して評価されたりプレッシャーを与えられるのは、子供にとって本当に辛いことです。

考えてみると、大人でもそうですものね。

「理想の社員」「理想の夫」「理想の母親」
自分以外の他者の定規でもって引き算をされて「足りない、足りない」と測ることをされたら辛いです。

「現実の子」「現実のその人」の存在そのものと、できたことを足し算して勇気づけていく。

子供が、人が、自分らしくのびのびと生きられる方法として私がアドラー心理学を伝えているのには

「00の好きなことはなんだい?どんな本が好き?」
「お友達のその子のどんなところが好き?」
「今日はどんなことがあったのかな?話してくれるとうれしい。」

そんな会話が交わされ、愛情にあふれた親も子も安心して自分の居所を持てる家庭や教室が増えていくこと。

そんな理由があるからかもしれません
posted by 高橋直子 at 08:02| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする