2014年05月06日

「嫌われる勇気」を読む(3)

子供のころからほとんど「認めてもらってこなかった私」にとって「承認欲求の否定」は、とても楽な気持ちになったことの一つでした。

直に親に「頑張ったね」とか「よくやったね。」とか言われたことがないのです。

小学校から中学までは本当に努力していました。いっぱいいっぱいなのに、それでもなおさらにいろいろなものを引き受けて、それさえもきちんと結果を出していたように記憶しています。

親がどう思っていたのかは、わかりませんが、適切な行動をしていても省みられないと、どんどんやる気が失せていきます。

こんなに頑張っているのに何の反応もない。

それどころか、できない部分ばかり責められた記憶
しかないほど不適切な行動にばかり注目され続けたので、高校に入って私は努力をやめ、その日を楽しく安楽に生きるという選択をしていきました。

学齢の幼い時期には、褒めること等で外的動機づけが必要です。

その後自分で内的動機づけをすることができるようになったときに、「勇気づけ」て行くようにしていくのが理想のパターンかもしれません。

不適切な行動をしている子供はまさに、適切な行動に注目してもらえないので、別な方法で注目を得ようとしているだけに過ぎないのです。

仕事を見ても評価が付くことは当たり前ですし、学校でも通信簿がありますので、現実の世界で「承認欲求が全くなく生きられるか?」というと、それはあり得ないことは事実です。

しかしながらその評価はその人個人に対してではなく、行った行動のみに対してなされるべきであり、少なくても「わたしという自分個人」について評価を求めることがなくなっていくこと。

それこそが私たちが自由になれる最初の一歩なのかもしれません
posted by 高橋直子 at 18:12| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする